田中愛子さま

田中愛子さま

海の精大島製塩場 来訪日:2009.7.28

マクロビオティックの創始者・桜沢如一氏から直接指導を受けていたことでも有名な“田中愛子先生”。
20歳まで持たないと言われていたほど病弱であった田中先生でしたが、マクロビオティックとの出会いがすべてを変えました。桜沢先生のもとに弟子入りをし、ベルギー3年、フランス3年、その他15カ国をまわり、いろいろな病気の方の対応に取り組まれながら、マクロビオティックを広めてこられました。

84歳になった今でも、元気に世界中を飛び回っている田中先生が、海の精大島製塩場の見学にいらっしゃいました。

田中先生と海の精とは、とても古くからのご縁があります。塩運動の初期のころ、東中野にあった先生のご自宅でよく会合し、当時の食用塩調査会の牛尾盛保代表、調査員の谷克彦さん、ニガリ補足塩の考案者であった佐々井譲さんなどといっしょに、村上譲顕(海の精株式会社 代表)や植草秀樹(海の精株式会社 取締役技術顧問)も、先生の手料理に舌づつみを打ったそうです。

塩は“いのちのもと”

田中愛子先生

久々の再会。左から、海の精株式会社 取締役技術顧問・植草秀樹、田中愛子先生、海の精株式会社代表・村上譲顕。

20年ぶりに大島を訪れて、35年来のなつかしい海の精の人々にお会いすることも出来て、本当にうれしかったです。海の精の塩づくりの工程を見るのは初めてでしたが、すべてがとても清潔ですばらしく、機能的に工夫されています。作る人の人柄がとてもよく出ていて、ただ本物を作りたいという願いの素人が、よくぞここまで作ったものだとご苦労が思いやられました。

海の精は、日本の海の塩、伝統的な製法の塩―。理念がはっきりしています。
食べ物も大切ですが、塩は“いのちのもと”です。“いのちの塩”なのだから、海の精のこの塩だけあれば大丈夫!と言われるようになってください。私どもは、海の精ができましたことを誇りに思っています。

私のいまとこれから

野の鳥のごとく飛びまわり、みのりの実を少しついばみ、枝に憩(いこ)い、持ち物は甲羅のように背おったリュックサック一つ。欧米でもアジアでも、どこへでもこれで旅ができます。昨年は、中国に二度行きましたし、毎年ヨーロッパにも行っています。いつも、大自然の無限の宝庫を知らされます。

私は、自由と幸福と健康を手に入れました。そして、たくさんの人々にもお会いすることができました。その喜びが何よりの宝です。宝石のような命の輝きを引き出し拝見できるのは、私の喜びです。

私は、今までずっと、一歩一歩、歩いてきただけ。これからも一歩ずつ着実に前に進むことが大事だと思っています。
桜沢先生はよく、「人生とは、夢と詩と情熱の世界である」とおっしゃっていました。死ぬまでそういう生き方ができればよいと思います。そして、大自然からの恵み、お力に感謝し、一日一日を楽しく生きていきたいと思っております。

運命の出会い

私と桜沢如一先生との出会いは、昭和16年。それは、母の病気でした。

母は、3年ものあいだ肺結核に倒れ、その間、父は良いと言われることは何でも試していました。家相を変え、鎌倉へも移り、温泉療法なども…。また、当時はドイツ医学が主流だったことから、ドイツからわざわざお医者さまに来ていただいたりもしました。しかし、母はいっこうに良くなりませんでした。

そんな時、手術も、注射も、薬もいらない! 食べ物だけで治る方法があるというご紹介で、東洋医学の先生にお越しいただくことになり、桜沢如一先生が見てくださいました。

今まで母に良いと思って努力していたのに、桜沢先生の自然医学とは逆のことをしていたことが分かり、今でもそれだけが悔やまれます。結局、母には間に合わず、数え42歳で亡くなりましたが、母が置き土産に桜沢先生をつないでくださったのだと思っています。

はじめてのマクロビオティック

マクロビオティックと出会って、70年近く…。
私たち女3人、弟1人はとても病弱で、それぞれが入退院を繰り返していました。私は、ぞうきんも絞れないほど力のない子で、お医者さまは20歳まで持たないと言っておられたほど。

いまからは想像もできませんが、子どものころは、お菓子づけの毎日だったのです。父がアメを作る会社の理事をしていたこともあって、学校が終わると、お菓子工場の広場でよく遊んでいました。そこで遊んでいると、大きな袋にいろいろなアメをくれるのです。子どもですから、甘いものをもらえるのがもう、うれしくて、うれしくて。
それに加えて、母は早くから近代栄養学を学び、肉や卵をきらすことはありませんでした。そんな生活をしていたせいもあって、いつも病気がちで、最後には歩けなくなってしまったほどです。

どんなお医者さまにも分からなかった私の病について、桜沢先生はすぐにお分かりになりました。そこで、アドバイスをいただき、玄米・味噌汁中心の食生活に180度変えてみると、なんと姉弟そろって立ち上がることができたのです。私はまだ東京家政の学生でしたが、元気になるためならこのまま前に進むしかない!と思って、先生のもとに弟子入りさせていただこうと決意を固めました。

桜沢先生とともに

その頃の私は、「こんな幽霊みたいな子は置けない!」と言われるほどでしたが、さぁそれからが厳しいこと!
雪の中でも常に素足で重いものを運び、食べ物や食器の洗いものなど小川の氷を割って、その流れの水で洗いました。いつも死を背中に感じながら、でもとりあえず前に進むしかありません。

桜沢先生は、崖の上で、下に落ちた子がはい上がるのをじっと見つめる「親獅子」のような方でした。
そんな厳しい日々を過ごしながら、やっと2週間が過ぎたころに、「どうだ。手相が変わったか?」と先生にたずねられました。すると、手のひらの生命線が確かに変わっているのです。そのとき、健康や運命はみずから作るものと知らされました。

宇宙の秩序、陽と陰に見分け、調和させることを教えられながら、食養を守りました。先生に「まず、病人を食養で200人治してごらん」と言われ、医学の知識も何も知らないまま、マクロビオティックの考え方をもとに、一緒に断食をしたり、食べ物を薬として工夫したりと一人ひとりのお手あてに取り組みました。するといつの間にか、私自身も病から解放され、健康を手にしていたのです。
あんなに病弱だった私でも、健康と言えるほどの体を手に入れることができました!

世界への第一歩

当時日本は敗戦を迎えました。桜沢先生は、「いざ、立て友よ、朝が来た。新しい世界が展開されるのだ。」と励まし、東洋哲学を世界に広めよう!と青年たちを送りはじめました。私も、「君は明日から、背景も家も金もなく、言葉も分からない異国に行って、一人立ちするのだよ。やってごらん。」と言われ、ベルギーに送りだされたのです。

首都ブリュッセルの「黄金の広場」と言われる中心地に、1階をレストラン、2階を講演会場、また日本の伝統文化やお茶、お花、合気道の研究所を開きました。“オ・リドレ”(黄金の米)という名のレストランには、病の方も次々と来られ、1日に100人以上のお客さまが来るようになりました。
はじめは、玄米が手に入りませんでしたが、半年ほどで店頭に出回るようになり、穀物、根菜類を中心にした野菜を使い、様々な病気の方に向き合っていきました。食べ物の取り合わせだけで治っていかれたり、お子さまを授かったりと、次々とたくさんの喜びにあふれた方々が集まる“黄金に輝く館”になっていったのです。

その後も、みなさまの希望でオランダに近い海のそばの別荘地に、5階建ての“悟り”という診療所を開きました。そこでは、時の皇帝フラビオ陛下の叔母さまの糖尿病も治り、自然食運動に協力してくださいました。
他にも、自然食の工場「リマ自然食製造会社」を創設したり、いつもゼロからの出発でした。弟子たちは、行った国々で何も持たず生活を立て、健康運動をとおして、世界に「マクロビオティック」を広めていったのです。

これからの“いのち”

今となって、やっと世界中にマクロビオティックが普及し始めました。台所で家族を守っている主婦たちに手をつないでもらって、これからの“いのち”を守って欲しい。

これがいまの願いです。その人たちに手をつないでもらえることが、一番強いと思います。ひとりの幸せというものは、存在しないのです。大勢になって戻ってくるのが、本当の幸せをいただくというものなのです。

田中愛子先生

先生の本に、とてもかわいらしい絵を描いていただきました。

田中愛子(たなか あいこ)プロフィール

日本CI協会・リマクッキングスクール元顧問。若いころ病をえて、マクロビオティックを学び始める。マクロビオティック創設者・桜沢如一氏の愛弟子として、世界中を廻る。マクロビオティックに関する知識はもちろんのこと、茶道や書道、能にも造詣が深く、生徒さん方から絶大な信頼を得た。2018年2月ご逝去。

著書
『あまくておいしい!砂糖を使わない和風のお菓子』(別冊主婦と生活)
『健康を食べよう~玄米食の本~』(文化出版局)

インタビュアー:下田ちひろ(海の精)